何故かこの巻の作品を見て、「時代に応じ得た妖怪が現れ、それで鬼太郎が登場するんだなぁ、そしてやっぱり、このシリーズの鬼太郎も、私は好きなのね」なんて改めて思ってしまった。そう考えれば、目玉親父さんのお茶目さも、猫娘のコスプレ(?)も、いいものです。 ただ、ねずみ男が清潔に感じる上に、インパクト弱くなってない?・・・って、これは私が気づくのが遅すぎただけでしょうか。
しかしまー、バックベアードが、ぬらりひょんとも絡むなんて(柴田秀勝さんの声はマル)。以降、彼らがどう動くのやら。 なんて、そんな下世話なことを考えずに見られる、19話もいいものですよ。 確かに、見ててちょっと疲れたけど・・・
それにしても、もうじき鬼太郎も放送されて1年になるというのに、ソフト化が2月の時点でまだ20話止まりという、そっちの方が問題じゃないでしょうか。
速水大貴はロス帰りの高校生で無敵のナックルファイター。その相棒でヤクザも一目おくビッグネーム、鷹山仁との最強コンビ、ツーメン・アーミーが復活した。二人がフェアーなパワーで悪を倒す痛快漫画です。むしゃくしゃした時に読んでください。 本巻では事件の黒幕・磊堂の罠にはまり恐喝犯として指名手配されてしまった大貴と翔。 九州編クライマックス。舞が書店で出会った「万引き少年を助ける男」の意外な過去に、大貴は…。 新シリーズ開始。
本作は、菊池寛の伝記映画的な要素もありますが、伝記映画というわけではありません。彼の私設秘書(池脇千鶴がとてもいい)の目を通して描く実録風(←ここが肝心)のフィクションになっています。 描かれるのは昭和5〜6年のわずかな時間だし、実際、菊池寛の確かな人物像というのはよく分からない、多面的であり謎の多い人物であったようです。「人情」の人であり、「面倒見のよい」人物であったことは映画のとおりなんでしょう。風貌は勿論、そういう意味でも菊池寛はもう西田敏行以外にはあり得ない。そのぐらいの名演であり、はまり役でした。 それにしても、昭和5〜6年の東京は、まさにモダンでしたね。江戸から明治・大正へと受け継がれていた日本の風俗風習と、海外から輸入された西洋文化の融合。「恐れ入谷の鬼子母神」「あら、松っちゃん、デベソの宙返り」とかの言葉遊びも普通に生活に生きていた。(笑) 高橋伴明監督としては、前2作(「光の雨」「火火」)ほどの「社会性」はやや薄いが、エンタテインメントのなかで考えさせられるエピソードがあちこちに仕掛けられていた。また、葉子が、知りあうことになる朝鮮人・馬海松(西島秀俊が雰囲気ぴったり)は、朝鮮の貴族の末裔で、菊地に可愛がられており、新刊雑誌『モダン日本』の編集長をまかされます。時代は、急速に軍部独裁と大陸侵略へ向い、日本人ではない彼は次第に居場所がなくなっていく。個人的かつ社会歴史的なキャラクターとして、非常にうまい登場人物設定でした。
ラストは、戦争に突入していく暗い世相の中でハッピーな「丘を越えて」という曲をミュージカル仕立てで登場人物全員で歌い踊る。これはこれで、カーテンコールとしても、逆説的な世相批判としても生きていたし、なにより観ていて楽しい。
去年、鬼太郎ファミリーのテーマ曲が、それぞれマキシシングルが出てると知った時「なにこれ?3作目の「燃えろ!鬼太郎」のように、アルバムでどーんと出しゃいいのに」と思ってたら、結局、出ましたね。 やっぱり、こういう形で出る方が、聴く方にも、フトコロにもいいもんです。歌も、全般的に良かったですし。 鬼太郎のぼやきソング「いたずら」は、最初コナン?と思いつつ、なんか乱太郎も混じってて可笑しかったし、猫ちゃんのはひたすら可愛いし、ベテランの山本圭子さんもノリノリで歌ってて楽しいし、まとめて聴くと疲れちゃう「妖怪横丁ゲゲゲ節」も、合間合間に、アクセントのように入っているのが、いい味出しててグッドです。
個人的には、ジャケットはもっと華やかなのがよかったでしょうか。
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