10代の半ばから20代に掛けて、筒井康隆は、自分にとって、ある種の神の如き存在だった。新潮、角川、講談社、文春、中公などの文庫本は恐らく総て読んでいたと思う。もちろん、私のような熱狂的なツツイストは数多く居たと思うし、それは今も変わらないと思う。
ただ、その映画化と言うと、驚くほどに少ない。ジュブナイル系SFの「時をかける少女」が胸きゅんアイドル映画として傑作になった以外では、「ウィークエンド・シャッフル」、「ジャズ大名」、「大いなる助走」、「スタア」、「日本以外全部沈没」、今年公開の「七瀬ふたたび」に、今作ぐらいじゃなかったか。
それは、猛毒で観念的、シュールリアリズム溢れる筒井文学が、当時も今も映像化に向かないと考えられていたからだと思う。確かに、「虚人たち」や「虚航船団」以降の諸作は極めて実験的であり、映像化不可と言うか文学でしか成立し得ない題材なのではあるが、80年代初めまでの作品群は、実はその強固な物語性から映像化しやすい要素が多かった。にも拘らず、何故、映画化されたものが少ないのかと言えば、それはやはり、その語り口や心理描写の絶妙さに、何より小説がオモシロすぎて、どうやってもそれ以上は面白く表現出来ないと映画人たちが怖気づいてしまったからだと推測する。
さて、前置きが長くなってしまったが、今作は、そんな中で、筒井文学の映像化に果敢にチャレンジし、その小説世界を顕現化した痛快作。監督の内藤誠が、脚本家桂千穂と構想を練り、製作費500万円で撮り上げた。
有名小説ゆえ内容は割愛する。あらゆる反社会的、もしくは変態的な嗜好の持ち主がそれぞれの分野の評論家として、「水滸伝」の如く梁山泊プロダクションを結成し、世論や社会、国家権力と対峙する。
公序良俗や社会倫理を盾に世論を操作するマスメディアの欺瞞性への痛烈な批判にもなっている今作、演ずるのは、平岡正明、南伸坊、上杉清文、四方田犬彦、大林宣彦、手塚真、山本晋也、巻上公一、竹中労、渡辺和博、牧口元美、末井昭ら当時のカウンター・カルチャー系文化人たちが結集。山城新伍、入江若葉、朝比奈順子、安岡力也らの職業俳優らとコラボする。
映画、演劇、出版、音楽の分野で活躍する超個性的なクセモノたちが集うメタ・ムービーみたいな着想だが、唯一テレビ・メディアだけは、劇中徹底的にコケにされる事もあり、誰もキャスティングされていない。 正直、素人芝居っぽい処も多いし、やっぱりチープさはいかんともし難いのだが、忘れられない印象的なシーン多し。
梁山泊プロダクションが怪しげな自称評論家たちをオーディションするシーンで、実際の映画評論家である石上三登志が登場、自身はアメリカ映画評論家として、コーマン、コッポラ、ルーカス、ペキンパー他、アメリカ映画で分からぬ事はない、とセルフ・パロディで自己PRするも、審査員のひとりである横領評論家の上杉清文から、「それでは、あなたは北の湖に勝てますか?」と間髪入れず質問され、答えに窮し、不合格となるシーンや、山城新伍が、反吐評論家として、権威の衣を着た文芸評論家の四方田犬彦をやり込めるまでの独演的滑舌で捲し立てるシーン。 中でも、プータローの手塚真に、女性TVレポーター吉沢由紀が街頭インタビューするシーンはマスコミの本質を突いていて、白眉の可笑しさ。今観ても、大爆笑する事請け合いなのだ。
初見したのは、83年公開時。山下洋輔Trioによるジャズ演奏と連動した上映会。上映前に内藤が語った主役の雷門豪介役には、平岡以外にも、吉本隆明も候補に挙がって、またそのキャスティングでも観てみたいと思ったのが懐かしい。
公開時は、げらげら笑いながらも、熱い連帯を感じさせた今作。当然好き嫌いは分かれるが、カルト的怪作として、御覧頂ければと思う。
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10代の半ばから20代に掛けて、筒井康隆は、自分にとって、ある種の神の如き存在だった。新潮、角川、講談社、文春、中公などの文庫本は恐らく総て読んでいたと思う。もちろん、私のような熱狂的なツツイストは数多く居たと思うし、それは今も変わらないと思う。
ただ、その映画化と言うと、驚くほどに少ない。ジュブナイル系SFの「時をかける少女」が胸きゅんアイドル映画として傑作になった以外では、「ウィークエンド・シャッフル」、「ジャズ大名」、「大いなる助走」、「スタア」、「日本以外全部沈没」、今年公開の「七瀬ふたたび」に、今作ぐらいじゃなかったか。
それは、猛毒で観念的、シュールリアリズム溢れる筒井文学が、当時も今も映像化に向かないと考えられていたからだと思う。確かに、「虚人たち」や「虚航船団」以降の諸作は極めて実験的であり、映像化不可と言うか文学でしか成立し得ない題材なのではあるが、80年代初めまでの作品群は、実はその強固な物語性から映像化しやすい要素が多かった。にも拘らず、何故、映画化されたものが少ないのかと言えば、それはやはり、その語り口や心理描写の絶妙さに、何より小説がオモシロすぎて、どうやってもそれ以上は面白く表現出来ないと映画人たちが怖気づいてしまったからだと推測する。
さて、前置きが長くなってしまったが、今作は、そんな中で、筒井文学の映像化に果敢にチャレンジし、その小説世界を顕現化した痛快作。監督の内藤誠が、脚本家桂千穂と構想を練り、製作費500万円で撮り上げた。
有名小説ゆえ内容は割愛する。あらゆる反社会的、もしくは変態的な嗜好の持ち主がそれぞれの分野の評論家として、「水滸伝」の如く梁山泊プロダクションを結成し、世論や社会、国家権力と対峙する。
公序良俗や社会倫理を盾に世論を操作するマスメディアの欺瞞性への痛烈な批判にもなっている今作、演ずるのは、平岡正明、南伸坊、上杉清文、四方田犬彦、大林宣彦、手塚真、山本晋也、巻上公一、竹中労、渡辺和博、牧口元美、末井昭ら当時のカウンター・カルチャー系文化人たちが結集。山城新伍、入江若葉、朝比奈順子、安岡力也らの職業俳優らとコラボする。
映画、演劇、出版、音楽の分野で活躍する超個性的なクセモノたちが集うメタ・ムービーみたいな着想だが、唯一テレビ・メディアだけは、劇中徹底的にコケにされる事もあり、誰もキャスティングされていない。 正直、素人芝居っぽい処も多いし、やっぱりチープさはいかんともし難いのだが、忘れられない印象的なシーン多し。
梁山泊プロダクションが怪しげな自称評論家たちをオーディションするシーンで、実際の映画評論家である石上三登志が登場、自身はアメリカ映画評論家として、コーマン、コッポラ、ルーカス、ペキンパー他、アメリカ映画で分からぬ事はない、とセルフ・パロディで自己PRするも、審査員のひとりである横領評論家の上杉清文から、「それでは、あなたは北の湖に勝てますか?」と間髪入れず質問され、答えに窮し、不合格となるシーンや、山城新伍が、反吐評論家として、権威の衣を着た文芸評論家の四方田犬彦をやり込めるまでの独演的滑舌で捲し立てるシーン。 中でも、プータローの手塚真に、女性TVレポーター吉沢由紀が街頭インタビューするシーンはマスコミの本質を突いていて、白眉の可笑しさ。今観ても、大爆笑する事請け合いなのだ。
初見したのは、83年公開時。山下洋輔Trioによるジャズ演奏と連動した上映会。上映前に内藤が語った主役の雷門豪介役には、平岡以外にも、吉本隆明も候補に挙がって、またそのキャスティングでも観てみたいと思ったのが懐かしい。
公開時は、げらげら笑いながらも、熱い連帯を感じさせた今作。当然好き嫌いは分かれるが、カルト的怪作として、御覧頂ければと思う。
糸井重里の「触媒性」が、きらめいている。 その道にくわしい方々に、一応「素人」である糸井が 話を聞くという体裁の本だ。 対談、司会糸井(ただし、一家言あるぞ)って感じがした。 日頃まったく興味のわかない分野でも、 こうして読みやすい形で書かれてあると、つい読んでしまうし、 事実、おもしろい。 これだけ、幅広い分野の話が一冊にまとまっている書籍っていうのは、 なかなかないんじゃないだろうか。 もしかしたら、この本を読むことで、 自分では気付かなかった新しい関心領域への道が、 みえてくるかもしれない。 私は、墓、ダジャレ、祭りのはなしがおもしろかった。 これからは、まわりにひかれようとも、 積極的にダジャレをいってやろうと思ったし、 死んだら、鳥葬も悪くないと感じたし、 全国の祭り巡りツアーをいつかやるぞと決意した。 行動意欲をかき立てる本である。
映画の出来として、3星程度だと思います。監督、原作者とほぼ同世代の私にとっては、当時の阪神間の記録映画として十二分の価値がありますが、それらに思い入れのない方にとっては違う評価がありえるでしょう。 一つ星を付けたレビューの中にJs Barの床に撒き散らかされたピーナッツの殻を原作者の比喩表現かのように誤解しておられる方がいましたが、当時、三宮にあったマーティン・キーナート氏経営(今はオーナーが変わってようです)の Bar ATTIC では床にピーナッツの殻を捨てるのが店の流儀でした。比喩表現でもなんでもなく、US流儀の酒場では普通のことかもしれませんね。 誤解なきようにね!>一つ星のレビュアーさん
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