小気味良くリズミカルな訳である。 英語版を読まない私は実際にカポーティがどう書いたかどうかに興味は持っていない。 訳者によってそのトーンやリズムが変わってしまうのは当たり前であり、それが村上 春樹だからといって訳の善し悪しを論じること自体は理解はできるが、重要なことでは ないと思うのである。
重要なのは この村上版のホリーはコケティッシュで夢想家であるところが更に更に小気味良く表れ 目の前にリアリティのある彼女の姿を浮かべることができる。 そのくらい楽しい仕上がりになっているということだ。
花盛りの家も、ダイヤモンドのギターもあわせてアイロニーとペーソスを含みながら 哀愁たっぷりな締盟感とそれでも未来への期待が表れる共感できる作品だった。
このカポーティの時代、ティファニーは今以上に尊敬され、高貴なものだった。 その頃のブラジルと同じくらい。少なくともホリーにとっては。
時代の香りがする楽しい作品。 そして村上春樹が愛してやまない作品のひとつ。
『ティファニーで朝食を』といえば、オードリィ・ヘプバーンの主演した映画化作品という印象が強く、しかも自分では見たこともないくせに「貧しいながらもいつかティファニーが朝飯前になる日を目指して頑張る新人女優の話」という誤った想像をはたらかせ、遠ざけていた私である。(本作品の主人公は正確には女優とはいえないし、頑張ってもいないし、そのくせ横暴でミステリアスでチャーミングなのだ。) 村上春樹による新訳が新潮社より発行されたため、そちらを手に取ったのだが、読み始めてすぐに自分が間違いを犯していることに気がついた。すなわち、この本はできるなら原文で読むべきだということだ。それほど、主人公ホリー・ゴライトリーの台詞は輝いているのだ。地の文においても空気やリズムは訳しがたいものであるが、とりわけ風味が失われやすいのは、詩に次いでは台詞だろう。登場人物の言葉がみずみずしく、心惹かれる作品は、できるかぎり原文で読みたい。 カポーティという作家は、長じては都会的な生活を送ったらしいが、心の深いところでは純真なものを抱いたままだったらしい。ホリーは、自宅での浮っついたパーティの最中で言う、"(もし彼女が有名になるとして)if it happens, I'd like to have my ego tagging along. I want to still be me when i wake up one fine morning and have breakfast at Tiffany's." 彼女の魅力の本質が表れた言葉だと思う。自分らしくあることは譲れない、と。 ある見方では、彼女は都会的なものと純真さとの間で引き裂かれているようにもみえる。しかし、なじんだニューヨークを捨ててまで自分のegoを通した彼女は、きっと都会的欲求を飼い慣らして、本当の自分でいられる場所を見つけたはずだ。彼女の置いていった猫のように。 少なくとも、カポーティはそれを信じて物語を締めくくったはずだ。
『ティファニーで朝食を』といえば、オードリィ・ヘプバーンの主演した映画化作品という印象が強く、しかも自分では見たこともないくせに「貧しいながらもいつかティファニーが朝飯前になる日を目指して頑張る新人女優の話」という誤った想像をはたらかせ、遠ざけていた私である。(本作品の主人公は正確には女優とはいえないし、頑張ってもいないし、そのくせ横暴でミステリアスでチャーミングなのだ。) 村上春樹による新訳が新潮社より発行されたため、そちらを手に取ったのだが、読み始めてすぐに自分が間違いを犯していることに気がついた。すなわち、この本はできるなら原文で読むべきだということだ。それほど、主人公ホリー・ゴライトリーの台詞は輝いているのだ。地の文においても空気やリズムは訳しがたいものであるが、とりわけ風味が失われやすいのは、詩に次いでは台詞だろう。登場人物の言葉がみずみずしく、心惹かれる作品は、できるかぎり原文で読みたい。 カポーティという作家は、長じては都会的な生活を送ったらしいが、心の深いところでは純真なものを抱いたままだったらしい。ホリーは、自宅での浮っついたパーティの最中で言う、"(もし彼女が有名になるとして)if it happens, I'd like to have my ego tagging along. I want to still be me when i wake up one fine morning and have breakfast at Tiffany's." 彼女の魅力の本質が表れた言葉だと思う。自分らしくあることは譲れない、と。 ある見方では、彼女は都会的なものと純真さとの間で引き裂かれているようにもみえる。しかし、なじんだニューヨークを捨ててまで自分のegoを通した彼女は、きっと都会的欲求を飼い慣らして、本当の自分でいられる場所を見つけたはずだ。彼女の置いていった猫のように。 少なくとも、カポーティはそれを信じて物語を締めくくったはずだ。
10年ちょいぶりに見たが、Blu-ray で映像がとにかくきれい!
自分が年をとった分、女性に対する見方も変わったからか, オードリーの魅力、チャーミングさにはますます惹かれるようになった。
この映画が作られた50年前,オープニングでのオードリーのイブニングドレスが世界の女性のファッションに与えたインパクトは相当斬新だったというが,いま見ても古さは感じない。男もののシャツをパジャマにしてみたり,バスタブを半分に切ってソファにしてみたり,トレンドの先端を創ろうという試みが斬新だ。 男性のスーツ,ジャケットスタイルはよく50年代の映画を見ろと言われるが,基本的な着こなし方や色使いはやはりこの時代でもきれいだとおもう。 (ネクタイが細すぎるのは当時の流行というよりは趣味の問題か?)
好きなシーンは,「今までにやったことがないことをする」というデート。 お菓子のおまけのリングにティファニーで文字を入れる時の店員とのやりとりがいい。 いい大人のカップルが10セントショップでおめんを万引きしてみたり,ほのぼのしていてかわいらしい。 面をはずしてみつめ合うオードリーの表情も好きだ。
テーマ音楽は ヘンリー・マンシーニ"Moon River"。 ゆったりしたワルツのリズムが心地よい。 映画の映像にもあっていて,なおさらよく思えるのかもしれない。
レーザーディスクで発売されたものは画質が悪く,常々不満でしたが,DVD版はかなり改善しています。オードリーの美しさが再認識できますし,オードリーとジョージ・ペパードが歩くニューヨークの街並みは本当に美しい。初めてご覧になる方よりも,むしろビデオやレーザーディスクで既に本作品をお持ちの方にお勧めしたいDVDです。
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