拍子抜けする理由は二点ほどある。
原作の中の登場する人々たちは人を“大きな冷淡”を持っているように感じた。
他人を不審の目で見ているようであった。
アニメ版「カトリ」のような“温かさ”が欠如している。
原作において親切な人・不親切な人を含めて
普遍的な“人間の温かさ”があったどうか私は疑わしく思っている。
宮崎晃脚本によるアニメ版の方が人間らしさが現れいた。
原作とのアニメとの違いはカトリの努力である。
アニメではカトリはいろいろな人に出会って“夢”を持ち、
その“夢”に向かって仕事の合間をぬって必死に読書や算数に励む。
しかしながら原作においてはその“夢”を持つきっかけというものが与えられず
カトリが努力する姿勢は描かれていない。
最終的に原作のカトリに与えられるのは“結婚”である。
原作のカトリは“家庭”に押し込められてしまった。
原作が書かれた当時の社会では“結婚”することは女として「当然」と見られていたのであろう。
しかし現代において女性の将来は“結婚”だけではない。
その点で原作はアニメ版よりも魅力の点で下位に位置していると思う。
以上のように原作「カトリ」とアニメ「カトリ」を比較した場合、
私はアニメ版のほうが魅力があるようと思っている。
原作に対して過度な期待はしないほうが良い。
買うとすれば、アニメ版と比較する程度で望むほうがベターかもしれない。
・≪余談≫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*アニメではシベリウスの曲が流れるが、原作では(当たり前だが)流れない。
*アニメ版「カトリ」を観た者にとってカトリと接する場合シベリウスの曲は不可欠である。
*アニメ版が“優”でありえるのは“偉大な”シベリウスの曲が
*流れるからだと私は思っている。
なんだか一生懸命に働くカトリに見入ってしまいます。作品中でカトリが働く様はオープニング映像そのままです。
牛番として朝から夜まで働き、手伝いをして、さらにその後聖書や叙事詩などの本を読んで勉強します。
実際に大学の実習で牧場で牛などに触れ、牛30頭の番をする大変さを知りました。牛って結構凄まじいんですが…。
がんばって、がんばって、ただそんな描写に釘付けになってしまいます。
この巻ではライッコラ屋敷に雇われ、隣の屋敷で働くペッカと話をしたり、子供を亡くして変わってしまった奥様に
ほんの少しずつ愛情を呼び起こさせたりしていきます。
一人ひとりのキャラクターが丁寧に描かれていて、ペッカやアンネリさんなど、とってもいい味を出しています。
なんだか地味なんですがおもしろいです。人物描写が落ち着いていて、丁寧で、とても親しみを感じます。
ああ、ペッカみたいな友達いたなぁ、とか、アンネリさんみたいな人いそうだなぁ、とか。
そんな共感がもてるのがルーシー、アンネット、カトリと続く三作品だと思います。
第九話でカトリが具合が悪くなって見る変な夢、悲しい夢などの描写もなんだかリアリティがあります。
また、シベリウスの音楽が流れるフィンランドの情景もきれいです。
また、蛇足かもしれませんが、つくづく日本語の変化に気づかされます。もちろん今のような耳当たりの悪い
略語の氾濫や言葉の乱れなど全く無く、また、驚いたことに発音の仕方も違います。
「ライッコラ屋敷」と発音する時と「ライッコラ」と発音する時、今は高低を変えて発音をしますが、この作品中では
同じ発声をしています。昔ってこうだったのでしょうか?