さしたる外傷もない胸にメスを立て、肺を摘出し、代用血液として海水を流し込む。 日本初の肝臓摘出手術、やはり海水が注入され、被験者は間もなく息絶える。 本書は、かつて本事件への関与によって死刑判決(のち減刑)を下された医師・鳥巣太郎の姪である筆者によるドキュメンタリー。「法廷では許されなかった本当の証言を、被告たちは嘆願書の中で詳しく語っているのである。そこから浮かび上がってきたのは、軍と医学部の組織犯罪としての九大生体解剖事件の真相である。 白昼堂々行われた捕虜移送、内外の研究者の目の前で繰り広げられた公開の手術、世紀の手術とまで呼ばれた最新の実験。顧みられない医の倫理。その中で苦悩する伯父。戦後の軍事法廷に渦巻く陰謀。罪を自覚するがゆえに窮地に追いつめられる叔父の姿……。 平時ならば善良な医師として生きたであろう人々が、恐ろしい戦争犯罪に加担していく。すべては戦争の狂気がもたらした悲劇であった」。 本書が告発するのは、ひとつにはB級戦犯に科せられた横浜裁判の実態。 一つの事件を扱うとはいえ、そもそも各人が抱えた事情はさまざまのはず。 にもかかわらず、個別的な訴えの採用は否定される。 なぜならば、「民主主義の原則に反するから」。 法廷はただひとつ、事前に描かれたストーリーを追認するためだけにあった。 黙殺されかけた真実を炙り出すことに一定の成功を収めてはいるが、やはり伯父の汚名を雪がんという筆者の思いが強すぎるため、事件を多角的に捉えられている、とは評しがたい。 証言という曖昧なものに頼ることの根本的な危うさも横たわる。 この点、皮肉にも軍事法廷と同じ轍を踏んでしまった、との感は否めない。 時の権威は証言台で力強くこう断言してみせた。「私は手術が不必要なもので、してはならないものだと知ったら、手伝わない」。 たとえ拒否した結果、「もし軍が私を罰したければ罰したらよいと思うばかりである」。 将校らが立ち会い、その命令に従った末のできごとであったとしても、「もし、そんな状況があったら、それは軍自体の命令というよりもならず者の命令だと思う。私は命令には従わないと思う」。 さて、この勇ましい証言にどれほどのリアリティや信頼を認めることができるだろう。 私は不意に連想する、「ポア」という呪文の下でテロリズムの暴走に駆られていったあるカルト教団の存在を。 殺さなければ殺される、そんな狂気のただ中で、果たして自律の可能性など見出すことができるのだろうか。「医師は治療することで、殺すことでない」。 己が良心に従って各人が振る舞うこと、そんな多様性を否定するファシズムを許すことは、服従の外に事実上いかなる選択肢も持たない状態へと自らを導くこととあるいは同義なのかもしれない。 九州大学生体解剖事件――70年目の真実 関連情報
九大医学部バレー部新歓動画2014
九大医学部バレー部が2014年の新歓合宿で流した動画です。パイレーツオブカリビアンのパロディとなっています。