ひとりの女性の心と肉体をむさぼりながら,ほかの女性に献身しようとする男性の物語。しかし物語というには,主人公の男性の口を借りた,作者のものと思われる人生論,社会論といった思想開陳の記述が多すぎて,それを集めただけでエッセイ集ができあがるほどである。そこでは,主人公と異なる考えの持ち主は,かならずと言っていいほど,「愚か」という形容を与えられる。 人生論の骨子は,人は次の瞬間には死んでもよいと思えるように,この瞬間を生きようというもの。この瞬間にどのように生きれば,次の瞬間の死を受け入れられるかを基準に,行動の選択をする。 ある女性のこころと肉体をさんざんに享楽した主人公は,上記の基準に従ってその女性を捨てて,彼女よりもずっと苦しんできたと主人公にとっては考えられるところの別の女性を,関わりがいのある相手として選び取る。 主人公には(作者には),彼が捨てた女性との関わり,そのなかで彼が彼女にしてきたことを,静かに時間をかけて観想してほしい。ひとりの人格を,どのように無情に扱ったのか。ひとつの人格にたいして,あのような扱いをすることのできる人間が,ほかの人格にどのような献身ができるというのだろうか。 作者のひとりよがりぶりが鼻につきすぎて,不快な読後感だった。多くの人が感動したというのが不思議でならない。
この小説では主人公がどのように「行動」したかではなく どのように「思考」したかという事のみに焦点を当てている。 従って、主人公が起こした行動のみに着目した場合、ほぼ 物語としては成り立たない。 少なくとも私は、この狂った世界を助ける為にカワバタが 政治家にならずにホッとした。もしそんな事になっていたら この小説は陳腐で偽善溢れる駄作となっていたであろう。
雑多な引用も、物語としてはくどいし、そもそも必要性を 感じない。だが、1人の人間の日々様々に散らばる思考を 読むと考えれば納得がいく。折々で触れた自分以外の人間の 思考に、自分の考えを時に重ね、時に反発し、更に思考を 深めていく。
様々なテーマが盛り込まれ、描きたい事を残さず包み隠さず 描いたような小説。作意を咀嚼するのに時間を要すし、賛否 両論の激しい本だと思う。ただ好き嫌いを抜きにして、私の 思考はこの本に強く揺さぶられたと思う。
恋愛小説が二本収録された本書は、2006年に上梓された作品集『どれくらいの愛情』の続編のような内容である。 かねてより私は、なぜ作者がかくも不倫を描き、さもそれこそ本物の愛であるかのように展開させるのかを疑問視していたのだが、最近作者が言いたいことが解ったような気がする(ちなみに私は本書を読んだ後『どれくらいの愛情』を読んでいる)。
おそらくこの作者には世の中の男女の繋がり方がいびつに見えて仕方がないのだろう。 「相手の妊娠を機に結婚」とか「三年付き合って今28歳だから結婚するにはちょうどいい時期」とか、そういう平凡な理由は「間違った組み合わせ」にしかならないと思っているのかもしれない。 例えば「ほかならぬ人へ」では主人公が以下のように自問するシーンがある。 「この世界の問題の多くは、何が必要で何が不必要かではなく、単なる組み合わせや配分の誤りによって生まれているだけではないだろうか。(中略)どうやったらそれぞれが『ちゃんとした組み合わせ』になれるのだろう?」
「ちゃんとした組み合わせ」は「間違った組み合わせ」の後でしかその正しさを証明できない。 いや、むしろそれはたかだか前の組み合わせが「間違った組み合わせだった」ということを露呈させることしかできない。 要するに真正性というものは直接語ると嘘になってしまうのだ。 だから彼は不倫を描かなくては本当の愛(というと大袈裟だが、相手への思いやりとか、大切に思う気持ちの真正性)を描くことはできないと思っているのかもしれない。
そう考えてみると、白石一文が歩む道は終わりなき困難な道であろう。 なぜなら彼が伝えたいことは彼が語っていないことであり、いわば語りえぬものを彼は語ろうとしているからだ。 語りえぬものは語られない。それはただ示されるのみである。 そしてただ示されるだけのものは誤解・誤読を免れない。
なんということだろう。 私は7年間彼の作品を読んできたが、そのどれをも誤読していた可能性がある。 白石一文が伝えたいこと――それは今を生きる私たちにとってあまりに重要なこと――をもう一度改めて受け取り直さなくてはならないのかもしれない。
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