映画そのものがあまりにも醜悪であるために、作品に関連する全ての要素も愚弄され、無視された感じであるが、個人的には、Hans Zimmerとその弟子の作曲した音楽はそれほどひどいものではないと思っている。 HZは、ポストプロダクションの時間が随分と縮小されたために、作曲に十分な時間を確保することができなかったという発言をしている。 実際、全体的には、この作曲家の実力が真に発揮された作品とはいえないし、また、発売されたサウンドトラックには、実際に作曲された音楽のうち半分も収録されていない。 ただ、それでも“Attack”と“December 7th”という2曲は、純粋なレクイエムとして、映像ときりはなしても鑑賞に充分に耐えるものだと思う。 和太鼓の連打と共に導入される短い劇的な音楽を経て、音楽は宗教的な雰囲気をたたえた悲壮と静寂の音楽に変転していく。 そこには、極限状況のなかで生まれる、あの時間の流れが停滞してしまったかのような不思議な意識状態の清澄な質感が見事にとらえられている。 いつものように、オーケストラと合唱団とシンセサイザーを融合して奏でられる音楽は、少なくとも、今日「癒しの音楽」として消費されているありきたりのムード音楽の魅力を凌駕するものである。 基本的には、HZという作曲家の感性は、19世紀のロマン派のそれに近似するものであるが、ただそこには最新の電子楽器を駆使して、また、適度なワールド・ミュージックの味わいを付けくわえて創りあげられた新鮮さが息づいている。 個人的には、これまでに古典的な作品を聴き尽くし、その精神的な深みを探求してきた音楽愛好家には、あんがいこうした作品というのは、向いているのではないと思うのだが……。
この映画は、平和を謳歌していた南国の楽園が、休日の朝に突然外国軍に襲われ、何の罪も無い人々が大量に殺されるという事態が、いったいどれほどの地獄か、まざまざと見せ付ける。機銃照射を受け、おぼれかけている負傷者たちがその外国軍に向かって懇願する、「まだ殺すきか もう十分だろ?もうやめてくれ」と。飛行機の上から地上に向かって爆弾を降らせ、機関銃を撃ちまくっていたあの連中には聞こえなかっただろう。死者だけで3千人以上。うず高く山積みになった死体の山。血まみれの負傷者はその数倍だ。友達の死体を放置し不眠不休で治療をし続ける主人公の看護婦の奮闘振りに涙が出た。なぜあのシーンはぼやけ気味になったのだろう。実際に当時の方々は皆、涙でああいう風に見えていたのだろう。このとんでもない極悪非道行為をやった外国軍は、良心の呵責が無いのか「やったやった!万歳万歳!」と大興奮、国中が大喜びしていたと史実にある。その国とは日本である。この映画は日本以外では絶賛されたが、日本では日本軍のファッションが変だとか些細な難癖をつけられ不評である。だがそんなことは日本以外の国の人は興味が無いので、主人公が右足から歩くか左足から歩くかぐらいの違いでしかない。日本中が大喜びした真珠湾(開戦前和平交渉中の)奇襲攻撃とは何だったのか、神父様の言葉と宗教音楽が流れる中映し出される死体の山でこの映画は訴えかける。クライマックスの、お腹の子の父親の死体が入った棺を迎える主人公。戦死したこの英雄を迎えるアングルが、青い空をバックにした下から見上げる形だ。美しく、非常に素晴らしかった。特撮は最高レベル。軽そうな安い男優を使ったわりにはドラマの出来も良い。文句なしの5点満点。
私は近年、日本陸海軍が行った「オーストラリア空襲」を調査・研究している。勿論ダーウィンのみならず、西オーストラリア・クイーンズランド州・ノーザンテリトリー等に行われた航空攻撃・航空偵察全般の研究で、両国の戦史データをすり合せながら行っています。 本空襲は我が国では殆ど紹介されておらず、戦史・戦記関係の書籍に僅かに記述されているのみである。「ダーウィン空襲」関連の書籍が我が国に流通することは研究者としては嬉しい限りだ。
現在では日・豪両国は「安全保障協力に関する日豪共同宣言」に署名するなど同盟国に準ずる関係であるが、70年前には不幸な歴史があったのだ。 大東亜戦争におけるオーストラリア空襲である、昭和17年2月より昭和18年11月まで断続的に北部オーストラリア各地が攻撃された。 最も有名なのが昭和17年2月19日の北部準州における「ダーウィン空襲」である。
毎年2月19日にはオーストラリア首相自ら「ダーウィン空襲は我々にとっての、もう一つのパールハーバー」と全世界に訴えている。 何故我が国がオーストラリアを攻撃したか?、それは米・豪間の補給ラインを絶つ事が目的(ポートモレスビー攻撃も同様)。 開戦直後の陸海軍の連絡会議では、オーストラリアへは陸上兵力は進攻しないと確認されたが、海軍はミッドウェー海戦の結果次第で進攻の意図もあった。 我が国の航空部隊は内南洋に転用されるまで終始優位に攻撃を行えた地域でもある。 またオーストラリアも国土の2/3の被占領も止む無しとの見解もあったようである。 しかしオーストラリアは開戦から約2ヶ月も経過しているにも関わらず防衛計画の準備が全てが後手後手であったのだ。 国や自治体は「何をしていたのか?」、第一次大戦後から我が国を「仮想敵国」と看做していたのではないのか?。 ある意味、この「のんびりとした」危機管理の意識は当時のオーストラリア特有のものであるが、先の震災での我が国の政府の対応そっくりである事に苦笑い。
本書は「ダーウィン空襲は我々にとっての、もう一つのパールハーバー・・・」というオーストラリア人特有の「アイデンティティ」の流れを汲む作品であり、大衆向けを狙った作品でもある。 私は「ダーウィン空襲」関連の我が国の戦時資料・当時の新聞・戦史叢書・海外文適等と照らし合わせながら客観的に「研究者の立場」で拝読した。 前評判では「日・豪の両極」からの視点で描いたとの事だが、所々「白豪主義」的な臭いが伺えるが、敵国である我が航空部隊の勇気を讃える部分は賞賛に値する。 また著者が参考にされた日本側資料は淵田美津雄氏の著書のみであり、我が国の戦史の骨格である「防衛省所蔵資料(戦時資料)・戦史叢書等」は活用されていないのが誠に残念であった。(訳者がすり合わせの為に戦史叢書や学術論文を使用している。) 確かにオーストラリア側の損害は的を得ている、しかし著者が我が国の損害を把握できていない事も残念で仕方が無い。 内容は空襲に到る前後の「ダーウィン」という港湾都市の描写しか描かれておらず、湾外に逃れた艦船の興亡や艦載機・第二波攻撃隊による特設巡洋艦の攻撃の記述はない。
また戦争において、「加害国」も「被害国」もない、あるのは「交戦国・敵国」という言葉だけだ。 本書を読んで「日本は悪い事をした」、「日本は悪い国だ」と思う方もいるかもしれない。 しかし何故我が国が「戦争に突き進んだのか?」を考えて頂きたい。 戦後にマッカーサー元帥が供述しているように、私はあくまでも「自衛の為の戦争」を起こしたと考えている。 不幸にも亡くなられた民間人の方には哀悼の意を捧げます。 しかし我が国は無差別爆撃をしたのではありません(結果論では病院船・病院を巻き添えにしてしまったが、後日ラジオを介して謝罪を行い、戦後BC級裁判には訴追されていない。)。 我が国は軍事目標を爆撃したのに過ぎないのです、市街地を攻撃したのは官庁街(海軍司令部)という軍事目標があった為です。
本空襲での我が国の戦死者2名、捕虜となった者1名、被撃墜1機(九九式艦爆)、不時着1機(零式艦戦)、不時着水2機(九七式艦攻・九九式艦爆各1機で搭乗員生還)、翼端破損1機(零式艦戦)、銃撃被弾×47機 砲撃被弾×6機 計107ヶ所(独自調査)。 先の大戦を通してオーストラリア方面航空戦での戦死者200余名(独自調査で珊瑚海海戦を除く)の英霊、そしてオーストラリア側の戦死者・不幸にも亡くなられた民間人の皆様に改めて黙祷を捧げたいと思います。
余談ではありますが、我が国が宣戦したのは「米国・英国」のみであり、昭和16年12月9日に我が国に対し宣戦したのはオーストラリアである。
参考 http://www.youtube.com/watch?v=Dma2MzgjWs8&feature=relmfu
日本独自の編集盤。というと、安っぽくなってしまいますが、そんな事はありません。USの1stヴァージョンにシングルつきというお祭り騒ぎのようなセットです。入手困難だったシングル曲やUK盤には収められていなかった曲が収録されていた事もあり、発売当時はすごい騒ぎでした。 今回の紙ジャケ化では、シングルも別CDとしてつくと言う事で、一番に楽しみにしているものです。 この、少し馬鹿にしたようなジャケット、いかにもクラッシュ。バカでも楽器が弾けなくてもとにかく声を上げなければならない!なんて、あの頃がよみがえり、あらためてすさまじい時代だったなあと思います。
映画そのものがあまりにも醜悪であるために、作品に関連する全ての要素も愚弄され、無視された感じであるが、個人的には、Hans Zimmerとその弟子の作曲した音楽はそれほどひどいものではないと思っている。 HZは、ポストプロダクションの時間が随分と縮小されたために、作曲に十分な時間を確保することができなかったという発言をしている。 実際、全体的には、この作曲家の実力が真に発揮された作品とはいえないし、また、発売されたサウンドトラックには、実際に作曲された音楽のうち半分も収録されていない。 ただ、それでも“Attack”と“December 7th”という2曲は、純粋なレクイエムとして、映像ときりはなしても鑑賞に充分に耐えるものだと思う。 和太鼓の連打と共に導入される短い劇的な音楽を経て、音楽は宗教的な雰囲気をたたえた悲壮と静寂の音楽に変転していく。 そこには、極限状況のなかで生まれる、あの時間の流れが停滞してしまったかのような不思議な意識状態の清澄な質感が見事にとらえられている。 いつものように、オーケストラと合唱団とシンセサイザーを融合して奏でられる音楽は、少なくとも、今日「癒しの音楽」として消費されているありきたりのムード音楽の魅力を凌駕するものである。 基本的には、HZという作曲家の感性は、19世紀のロマン派のそれに近似するものであるが、ただそこには最新の電子楽器を駆使して、また、適度なワールド・ミュージックの味わいを付けくわえて創りあげられた新鮮さが息づいている。 個人的には、これまでに古典的な作品を聴き尽くし、その精神的な深みを探求してきた音楽愛好家には、あんがいこうした作品というのは、向いているのではないと思うのだが……。
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