ゲーム購入後、その素晴らしさ(あくまで右京)に完敗し すぐにCDも購入
右京様・・・素敵過ぎます ドラマ自体は私はどうでもよかった 過去の右京のウブさは可愛かったけど それ以上にお嬢様とのピロートークが!!!
もう!!エロすぎ! あの低い声で 「いけないお嬢様だ・・」といわれた日には 鼻血の大量出血で倒れそうになりました
ゲームではあまりお脱ぎにならない右京様 CDの中表紙ではテニスで鍛えた素敵な裸体を見せてくれます あれみながらCD聞いたら最強ですね
あと携帯ボイス用と思われる複数の台詞集ですが 普通の「おはようございます」「おやすみなさいませ」と一緒に ラストの台詞(ネタバレになるので是非ファンの方は聞いてください!!!) 大笑いです
ああ・・・素敵過ぎるわ 私も右京執事欲しい・・100万なら買うな
個人的には文句なしの作品です。 このCDシリーズでは、ゲームのクリスルート後半でしか見られなかった情熱的なクリスの姿が垣間見えます。
メインドラマでは、庶民出・大隈家のお荷物と『お嬢様』を評価する本家のアンダーバトラー・朝倉に、クリスが怒りを顕わにしたり…。 ドラマでは誰とも恋人というわけではないようですが、それでもゲーム序盤とは違い、クリスの中でお嬢様の位置づけが決定的に変化したのだということがよく分かり、ファンには嬉しい限りではないでしょうか。
『モノローグ』や『Bed Time Talking』では、恋人としてのクリスの言葉が聞けて此方も満足。キャラが違うなどと嘆くこともなく、クールなクリスの一面として描かれているので安心して聴けました。
お嬢様も声なしの出演なので、自分の中のイメージを壊しません。
『キャラソン』や『執事ボイス集』なども収録されていますので、ファンは買って損はないと思います。
ちなみに、右京編よりもずっと甘く仕上がっている気がするのは、やはりキャラクターの違いからなのでしょうか。 色々、楽しいCDなので、クリスに大事にされてみたい方は、ぜひ聞いてほしいと思います。
今回、松本孝弘さんの企画であると言う。「自分がギターリストとして影響を受けた楽曲」との事だが、まさか『異邦人』を引き出してくるとは。 そしてZARDが歌うとなれば、まさしく期待以上である。 「(オリジナルより)すこしテンポアップした」 とワイドショーなどで批評した人がいたが、もちろん文句ではあるまい。よくやってくれた、との絶賛である。そして、ZARDの坂井泉水の歌声で、 オリジナルより爽やかになったと言うのが、率直な感想である。 松本孝弘さん、よくぞやってくれた。絶賛である。
カミュの代表作。この作品でカミュはノーベル文学賞の栄誉に授かることとなる。
この本を購入しようとする人たちは、何かしらのかたちで仏語を学びたいという意欲を持っている方々が多いと思うので、この本の仏語についてレビューすることにする。
小説ではあるが、臨場感を出すために敢えて、半過去やpasse composeが多用されている。基本的な時制さえマスターしていれば、時制でつまづくことはないだろうと思う。subjonctifやpasse simpleなどは、あまり用いられていない。
語彙のレベルに関して: 前半部はムルソーの日常生活を描いているので、そこまで難しい単語は出てこない。だが、後半部になると、法律ネタや裁判ネタが絡んでくるので、難易度が少しあがるかもしれない。難しければ、前半部だけ読むのでも良いと思う。
文体:簡潔かつ平明で、非常にわかりやすい。仏語圏で仏語の教材によく取り上げられるだけあって、簡潔な仏語に触れることができる。
そして、なんと言ってもこの本は安い。中途半端な日本語の仏語読本を買うより、この本と日本語版を買って、読み比べたほうがコストパフォーマンスが良い。
20世紀を代表する仏語圏の文学者の作品なので、仏語圏でも人気の作家の1人です。カミュを読んだことがあると言えば、仏語圏の人たちとの話しのネタにもなるので、お勧めです。
ムルソーの終盤における絶叫がニーチェの「神は死んだ!」(『悦ばしき知識』125番)の変奏であることは明らかです。よってニーチェのルサンチマン論を知らないと十分理解できないと思います。ルサンチマンを抱く人間は相手がいないと自分を「善い(善良な)」存在だとみなすことができません。精神的貴族が自らの強さ・豊かさ・美しさを自己完結的に「良い(優良な)」ものと評価するのに対し、精神的賤民はまず他人がどれだけ「悪い」存在であるかをでっちあげ非難誹謗したあとで反動的に自らの弱さ・貧しさ・醜さを「善い」ものだとみなすわけです。この錯乱した妬みの思想がルサンチマンです。
ムルソーは一般的に見ればちょっと変わったところがあるにしても平凡な人間に過ぎません。少なくとも第一部ではそう描かれています。ところが第二部で裁判が開始されると、徹底的に嘘がつけないという美徳ゆえの彼の非常識な行動や言動が、偶発的に行われた殺人に直結されてしまいます。検事も判事も、ムルソーの弁護士ですらも、事実を歪曲し必死でムルソーの虚像をつくりあげようとします。彼らにとって社会通念の通用しない人間はそれだけですでに異常で危険な存在というレッテルを貼られて当然なのです。ムルソーが母親の死を悼まなかったのは、それが充実した人生を全うした母親に対する侮辱だと考えるからですが、ルサンチマンに満たされた社会はそれを理解できません。あくまで御用司祭のようにぐすぐす泣いてくれる人間が社会にとって必要なのです。嘘がつけない根っからの正直者ムルソーは受け入れない一方で、嘘泣きしたり謝ったふりをしてみたりする欺瞞的な人間に対してはより大きい評価を与えるのが社会なのです。ムルソーが主体的に「良い」と感じたことでも、社会にとっては「悪い」こととされ、あくまで社会という全体が絶対的に「善い」ということにされてしまうのです。
加えて、この作品がドイツ軍によるフランス占領時代の1942年の作品であるということにも留意すべきでしょう。カミュ自身は否定していましたが、カミュが広義の実存主義者だといわれるのもこの辺に由来しているのだと思われます。
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