不安と迷いと葛藤に苦しむ男の決断と行動を描いた、現代悲劇。 選択肢が無数にある現代でも、頻繁に起こりうる人生の一場面。 未来を的中させる予言者と、愛する妻にそそのかされ、 男の欲望は目覚め、牙をむく。 そして、欲望が理性を追い抜いた。
「この森はな、蜘蛛の手のように八方に道が乱れて、寄せ手を惑わす我が蜘蛛巣城の要害というものよ。」
「人を疑う心にこそ、物の怪が潜んでおるのだ!」
「そのお考えこそ、物の怪に憑かれている印です。物の怪に操られ、己の手でその予言のままの事実をつくり、予言が当たったとお思いになる。正気の沙汰とは思えませぬ。」
かつて高校生だった頃、"評論文"はそこそこ得意だった反面、"小説"が苦手だったことを思い出しました。ただ、コンスタントに成績が悪かったというより、むしろ好不調の波が激しかったので、苦手というよりも掴み所が無くてどう勉強したらよいか混乱してたと言った方が正確かもしれません。本書ではいわゆる「小説を読める」ようになる為、入試問題をモチーフに問題を解く為の暗黙のルールを審らかにしています。こう考えてみると、入試問題の「小説」は学校空間での道徳というか価値観をいかにして読み取らせるかに尽きるかだったんだなと今になって痛感させられました。もう十数年早く本書に出会ってればよかったですね。
シェイクスピアの『マクベス』を、黒澤明監督が、戦国時代の日本の物語に翻案した、世界映画史上に残る傑作である。この映画が、欧米で、どれだけ高い評価を受けたか、若い人達は知らないかも知れない。例えば、ロンドンに国立映画劇場が落成した時、イギリス人は、こけら落としに、黒澤監督を招いて、『蜘蛛巣城』を上映したのである。又、ピーター・ブルックは、コージンツェフの『ハムレット』と黒澤明の『蜘蛛巣城』を全世界で作られたシェイクスピア映画の最高峰だと言ひ切って居る。−−シェイクスピアの国の人々が、この映画に熱狂したのである。−−更には、スピルバーグなども『蜘蛛巣城』を絶賛して居る。 かつて、黒澤明監督は、『羅生門』を監督した頃の事を回顧して、自分は無声映画の美しさに戻りたかったのだ、と言ふ意味の発言をした事が有る。映画の原点である映像その物の美しさに戻りたかったと言ふ意味である。『蜘蛛巣城』には、『羅生門』以上に、そうした無声映画的な造形美が溢れて居る。−−雨の森、その雨の森で道に迷ふ馬と武者、そこに現れる妖怪、風にはためく旗、霧の中で動く森、そして、鷲津(三船敏郎)が矢を浴びるあの有名な場面、など、まさに無声映画の様な、映像その物の美が、極限まで高められた傑作である。佐藤勝の音楽も素晴らしい。メインタイトルに流れるあの笛の旋律は、日本の映画音楽史上に残る傑作である。私は、日本がこの映画を生んだ事を誇りに思ふ。
(西岡昌紀・内科医)
−−江戸時代の馬鹿囃子のなかに、暗い希望のない状況における庶民の生き方のひとつの伝統を黒沢明は見た。しかし、彼自身はそれに共感しているわけではなく、むしろ、腹だたしいことだと感じている。そこから生じるのがいらだたしさの笑いであろう。そして、そのいらだたしさのなかには、『生きものの記録』で思想的に袋小路に迷いこんでしまって以来の、黒沢明自身の思想的目標の喪失ということがあるのではないか(佐藤忠男著『黒沢明の世界』(三一書房・1969年)222ページより)−− この映画で印象的だったのは、映画の終はり近くで歌はれる馬鹿囃子である。原作の「明けても暮れても牢屋は暗い」と言ふ歌が、この翻案作品では、江戸時代の馬鹿囃子に代はって居る訳だが、この場面は、田中春男、渡辺篤、藤田山、藤木悠、の四人で演じられる、なかなか印象的な場面であった。この場面を見ると、黒沢作品に登場する俳優にはパントマイム的な演技の達人が多かった事を強く感じさせられるが、それは、戦前からの下町の演芸や映画の伝統の遺産の様である。 黒沢監督の庶民の描き方には、例えば『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』の様に、やや嘲笑的な笑ひが感じられる場合と、『赤ひげ』の様に、庶民の善良さが強く押し出される場面が有るが、この作品は前者だろうか。愛すべき小品だと思ふ。
(西岡昌紀・内科医)
|