明日。 明日、長崎に原爆が落ちる。 その前日、 そこに生きる人々、 戦時下であり、 それが日常であり、 明日へ向う生きる力である。 結婚式、 生まれる子ども、 それもまら、日常の中の、人間たち。 明日、 明日に未来があると、 信じている。 いや、 信じるというよりも、 疑っていない。 だから、絶望なんてしていない。 物もなく、 豊かさのかけらもない生活で、 彼らは地に足をつけて生きていた。
この重さ。 この暗く、重い、物語。 忘れてはいけない、 忘れてはいけない。
各章が、数字で進んでいるのだが、 最後の章が、“0”になっている。 その数字を見たとき、 もうどうしようもなく、 胸が締め付けられるような気がした。
今を生きる僕が、 明日を疑うことなく、 生きられる力を、 持つことができるのだろうか。
日活で「帝銀事件」「日本列島」といった骨太の社会派映画を作り、大作「黒部の太陽」を様々な困難(他の映画会社からのイヤガラセ)に打ち克って完成させた熊井啓監督が日活退職後にATGと組んで撮り上げた力作。 これまでのキャリアの延長とも言えるこれまた重い社会派作品。 長崎県佐世保市を舞台に原爆被爆者部落、朝鮮人部落・・・これら被差別部落間にある大きな壁、差別される者が差別を行うという構図の重さ。差別は人間の原罪であることを思い知らされる。 本作の原作および脚色を担当した井上光晴には、その他にも「TOMMOROW」(黒木和雄監督)といった長崎原爆を題材とした傑作があるが、怒の「地の群れ」と静の「TOMMOROW」はコインの裏表的な作品だと思う。新藤兼人の傑作「原爆の子」と並べるにふさわしい原爆映画の一つだと思う。 観る方によっては、随所に挿入される鼠に食われる鶏、そして焼殺されるその鼠のシーンがショックだと思うが、熊井啓監督は後年「海と毒薬」で、捕虜の生体解剖場面で保健所から引き取ってきた犬を人に見立てて撮影。犬を開腹して鼓動する心臓を鷲づかみするかなりショッキングなシーンがあるが、熊井監督は撮りたい画のためなら「動物の生死は問わず」という方だったのではないだろうか。賛否両論は勿論あってしかるべきだが。 とりあえず、多くの人に観てもらい喧々諤々してほしい。 未だDVD化もされないし、リバイバルもされないため、なかなか観ることはできないが、現状を打破するような気骨のあるメーカーが現れるのを待つしかないのか。
今、生きている。やらないと行けない仕事と称するものがある。今という瞬間、私たちは明日があることを確信している。 今、必死に、生き物としていきている。人間社会の規範にしたがっていきている。明日のために。 「明日がある」という前提でいきている。行動している。考えている。 この作品は、戦時、必死に「明日」のために生きている人たちの日常生活を克明に描く。 そして、ピカドン。 「明日はない」 庶民の 悲しい 事実を 伝える。 今はなにか。明日を前提にしている。それを無惨に消してしまったアメリカ国の原爆投下。 監督の意図は明確。 私は 納得する。
今。「明日」があると信じている自分たちがいる。 原爆は この 前提を すべて 消した。 涙が 出てくる。悲しみ。怒り。これが 長崎の 「明日」である。
非常に面白いドキュメンタリーで、観るうちに失笑、ニヤニヤ笑いが止まらなくなる。ここまで「不幸な自分」を脚色したらえらいよ、アンタ、井上光晴さん。
幼少の頃から「嘘つきミッちゃん」と呼ばれた井上光晴氏は、ご自分の経歴を偽り、家族も知らなかったそうです。長女の荒野さん(本名)の名前も、人と変わった劇的な一生を送るようにとの願いから「嵐が丘moor・あれの」と名づけられました。荒野さんによると、経歴詐称や数々の嘘も、何事もドラマチックな展開や結末を図る天性の作家であるサガによるものとかばっていらっしゃいます。お母様も毎日3度、居酒屋のような食事を誂え、食事中にあれが食べたいと他の物を所望すると、それに答えるという献身ぶり。瀬戸内寂聴氏ご本人が、出家の原因は井上氏であると語っているように、女性関係も多々あったご様子ですが、家族が献身せずにいられない井上氏の魅力的な側面が伺えます。
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