ジグザグ道3部作の第1弾です。 宿題をちゃんとノートにしてこなければ退学にする、と言われた友だちのノートを間違えて持って帰ってしまった少年がなんとか友だちにノートを返そうと家を探し回る、そんなストーリー。 まず、はじめの教室のドアだけを映したシーンが微妙に長くていい感じ、先生が来る前の教室はあんなものでしょう。家に帰ってからノートに気付き、お母さんに「返してくる」と言っても、「宿題が先」「宿題しなさい」「しないとぶつわよ」と言われるトコは万国共通だなぁ、と。イラン映画なのに昔の自分を思い出すみたいなトコがいい。道々の大人たちがまともに取り合ってくれない場面は、もう社会の縮図ですね。もちろん他人同士なのでプライオリティーが違ってくるのは仕方ないんで!すが・・。 好きなシーンは、少年が返しに行く途中で、丘、というか小さい山みたいな場所を一人かけるシーンがあるんですが・・映されている映像の8割が丘で、あと2割に少年と空が映っていて、その空が、サイコ―にリアルでした! あぁ、なんて言うんだろう・・・・あの曇り具合は日本の空です。そして、むかし僕が見上げたことのある空でもあった。
1993年日本公開の本作品を見逃していた私のような観客が多かったせいだろうか。「午前10時の映画館」はほぼ8割程度座席がうまっており、そんじょそこらの新作映画よりもよっぽど客の入りがよさそうな・・・・・・アッバス・キアロスタミいなイラン映画が世界的に注目されるきっかけとなった本作『友だちのうちはどこ?』は、虚構と現実の境界をはずした作品とも評される名作である。
『桜桃の味』では撮影終了後の風景を映し出すことによって、近作『トスカーナの贋作』ではあのジュリエット・ビノシュに偽妻を演じさせることによって、フィクションとノンフィクションの狭間に生じた迷路に観客をたくみに誘い込むキアロスタミ。本作では純粋無垢な子供の視点を使った抜群の演出によってその効果を高めている。間違えて持ち帰ってしまった友だちのノートを家に届けるために、コケールとポシェを結ぶジグザク道を少年が往復するだけのストーリーなのだが、なぜか見ているこちらはハラハラドキドキ。観客はポシェに住む友だちの家がなかなか見つからずこまりはてるアハマッド少年を見ているうちに、いつのまにか少年と同じ視点で映画を追いかけている自分に気づき驚かされるのだ。
本作の鑑賞中思わず「パクったな」と心の中でつぶやいてしまったほど、以前日テレ系で放送されていた『はじめてのおつかい』というTV番組と演出手法が酷似している。親におつかいをたのまれたお子様が、お菓子やペットの誘惑に打ち勝って無事目的の品を買って家に戻れるかどうかを隠しカメラで追いかけたセミ・ドキュメンタリー番組である。イランの田舎に子供の興味をそそるようなものがあるはずもないのだが、口やかましい先生や母さんをはじめ子供に無関心な大人たち、古い因習に縛られた封建的な爺さん・婆さん、不安を増長する動物の鳴き声や風の音に行く手をはばまれ、宿題をノートに書いてこないと退学させられるネマツァド宅捜索は遅々としてすすまない。そんなアハマッド少年の要領の悪さにイラッときた方は、キアロスタミの術中にまんまとはまってしまったことになる。
演技経験のないコケール村の住人をそのままキャスティングしたというキアロスタミは、俳優に極力演技させない演出をした小津安二郎をことさら信奉しているらしい。8年にも及ぶイラン・イラク戦争の最中に制作された本作からは、昔ながらのイランの生活感は伝わってくるものの、血なまぐさい戦争の傷跡はどこにも見あたらない。それは、戦後すぐに小津が制作した『晩春』に焼き付けた日本の原風景と同じような意図があったのではないだろうか。キアロスタミや小津にとって、戦争で破壊しつくされたイランの首都テヘランや東京の荒廃した風景こそが“虚構”にしか思えなかったはずなのだ。
ウソのような本当の世界(戦争)と本当のようなウソの世界(コケールとポシェ)。映画冒頭に登場にするしまりの悪い学校の扉や、嵐のような風でバタンと開いてしまうアハマッド少年宅の扉は、そんな2つの世界を隔てる境界のメタファーだったのではないだろうか。本当のような虚構の世界で奇跡のようなファンタジーを見せられた観客は、扉の向こうに延々と続く暗闇に包まれたリアル・ワールドを否応なしに意識させられるのである。
ジグザグ道3部作の第1弾です。 宿題をちゃんとノートにしてこなければ退学にする、と言われた友だちのノートを間違えて持って帰ってしまった少年がなんとか友だちにノートを返そうと家を探し回る、そんなストーリー。 まず、はじめの教室のドアだけを映したシーンが微妙に長くていい感じ、先生が来る前の教室はあんなものでしょう。家に帰ってからノートに気付き、お母さんに「返してくる」と言っても、「宿題が先」「宿題しなさい」「しないとぶつわよ」と言われるトコは万国共通だなぁ、と。イラン映画なのに昔の自分を思い出すみたいなトコがいい。道々の大人たちがまともに取り合ってくれない場面は、もう社会の縮図ですね。もちろん他人同士なのでプライオリティーが違ってくるのは仕方ないんで!すが・・。 好きなシーンは、少年が返しに行く途中で、丘、というか小さい山みたいな場所を一人かけるシーンがあるんですが・・映されている映像の8割が丘で、あと2割に少年と空が映っていて、その空が、サイコ―にリアルでした! あぁ、なんて言うんだろう・・・・あの曇り具合は日本の空です。そして、むかし僕が見上げたことのある空でもあった。
イランが世界に誇る巨匠アッバス・キアロスタミの代表作。イラン北部の小さな村を舞台に繰り広げられる牧歌的であり大人の世界を少し覗いてしまう少年による成長の一日。友達のノートを誤って持って帰ってしまった少年が、そのノートを返そうと友達の家まで右往左往する様子をドキュメンタリータッチで淡々と進ませていく。道ににたむろするおじいさんおばあさん。忙しく家の仕事をするおばさん。突然路地から現れる大きな牛。数々の困難から少年は成長してゆく。子供からの視点でカメラはそれらの出来事を克明にとらえる。右へ左へ折れるジグザグな丘に開かれた道をひたすら友の為に走る、あの少年の姿が目に焼きついて離れない。
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