みなさん「惜しい」を連発していますが、僕も同意見です。僕もセーブの手順を間違えて(俺が悪いの?)ミーフィー以降が出てくれません。やり直し途中で挫折しています。だって歩くの遅くていらつくんだもん。でも何より気に入らないのは、きっちり等間隔で居並ぶゴブリンさん達です。水口さん、何してたの?
騙し騙されのコンゲーム。巧みにはられた伏線にいつしか絡め取られる快感です。
ハリウッドでリメイクが作られましたが、オリジナルのこの味は出せませんね。
こんな面白い映画が日本で見れないのは残念すぎます!
才気あふれるファビアン・ビーリンスキー監督とリカルド・ダリンの名演にひたってください。
「○○○」とその他のストーリー、ではなく、ナイン・ストーリーズ。 この表題にふさわしくサリンジャーが選択した短編が順序もよく練られ、1冊の本の構成として見事にまとめられています。どれが表題作ということでなく、独立した短編でありながら、集まることで「ナイン・ストーリーズ」というすばらしい1冊を生んでいると思います。
グラス家長兄の死をめぐる象徴的な話から始まって、世界と人間の愚かさ醜さに、ひるんだり傷ついたりする人々(グラス家のメンバーも含まれます)の姿を描く作品群のあと、そんな世界、そんな人間たちに押しつぶされず、逆に愚かさ、醜さごと肯定して受け入れようとする人の姿を描く感動的な作品が続きます。 ここで思考を停止できたらこの作家はたぶん、ずっと幸福な人だったんじゃないかと思うのですが。巻末作を読むと、愚かさ、醜さといかに折り合っていくか考えることをやめなかったサリンジャーが禅に思想のよりどころを求めたことがわかります。サリンジャーのライフワークがこうして一望できる作品集なのです。
グラス家サーガの他の作品を読んでいる方には必読ですが、そうでない方、「ライ麦畑でつかまえて」のイメージしかない、あるいはそれも未読の方でも、本書の中の「エズメに捧ぐ」などはかなり馴染みやすく、感動できると思います。 「ライ麦」だけでない、よりサリンジャーの本質を示した作品として、ぜひ読んでみてください。
フェリーニへのオマージュではない。それは前提であり、「教養」なのだから。 わざわざ口にのぼせることではない。だからこそ『NINE』である。
製作途上での、盟友、アンソニー・ミンゲラの早すぎる死。 様々なトラブルと二点三点するキャスティング。 そしてお世辞にも成功と言い難い興行収益。まるでこの映画のための諸状況。 フェリーニの創作の苦しみは、何をか言わん、かのロブ・マーシャル自身の苦しみに他ならない。
我々、日本人にこの映画が理解出来るか?このスタイルを創造することが出来るか? いや理解する必要も創造する必要もない。 なぜなら日本人には日本人なりの映画の伝統があり、スタイルがある。 この作品の真価は興行成績ではなく、歴史が評価を下す。
グイド・コンティニ(監督)演ずる、ダニエル・デイ=ルイスの怪演。 マリオン・コティヤール(グイドの正妻)の美。 ペネロペ・クルス(グイドの愛人)の妖艶。 ジュディ・デンチ(衣装デザイナー兼グイドの私的管理人?)の匠の技。 ケイト・ハドソン(ファッション記者)の圧倒的迫力。 (彼女が歌う「Cinema Italiano」はこれ単体でも十分に華を添える) ニコール・キッドマン(グイドにとっての真の映画女優)のゴージャスな立ち振る舞い ソフィア・ローレン(グイドの母親)の衰えを知らない美貌、そうソフィアこそ「イタリア」の美そのもの。 ステイシー・ファーガソン(砂浜の娼婦)という野心的なキャスティング。
もうこれだけのキャスティングだけで典雅な芸術である。 実のところ、ロブ・マーシャル的には「不出来」な映画だろう(確信犯の可能性は捨てがたいが)。 だからこそ、「監督」の不安定な精神とプレッシャー、そして「再生」を観るものに沈溺させる。
しかし単なる心情吐露ではない、スタイリッシュかつゴージャスなプロフェッショナルの競演である。
バンデラス主演のミュージカル版の大ファンで、舞台も何度も観ましたし、 ミュージカルのサントラも聴きこんでいたので、映画を観て、あれ?と思ってしまいました。 ミュージカルの曲を全部使っているわけではなく、オリジナルな部分がかなりあるのですね。 私はやはりミュージカル版の方が好きなのですが(映画ではカットされた良い曲がたくさんあります)、 ケイト・ハドソンが歌う『シネマ・イタリアーノ』は圧巻でした。 カッコよかった。この曲聴きたさにCDを買ってしまいそうです。 といえ、映画を観終わって、なんとなく物足りなさを感じ、家に帰ってからミュージカルCDを ずっと聴いています。映画版の方が良いという人もいますし、これは好みの問題ですね。 映画で初めて『NINE』に接していれば、感じ方も違ったと思いますが・・・。
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