『ツィゴイネルワイゼン』… 初見は20年以上前だろうか?。当時洋画ばかり観ていた私が意識して邦画を観た始めての映画だったように思う。その時のメディアはVHS。 筋はちっともわからないのに不思議なオーラの酔わされ、以来LD、DVD、とメディアを変えて楽しんできた。 (残念なことに銀幕では観たことないのだ…涙) それがとうとうブルーレイである…。感慨深い。 当然購入し、鑑賞。やはり三本とももの凄く楽しい。幸せである…。 わたしにとってこの映画は‘原点’とでもいえるもので、いまでも冷静に分析したりできない。…ひたすら好きである。 (もちろん『陽炎座』も『夢ニ』も同様) といったわけで、作品自体の評価は★10個でも足りない。
さて、 せっかくのブルーレイ。やはり画質の向上が気になるので早速手持ちの『デラックス版』三本と比較。 まず『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』は画質向上がはっきりと感じられる。 服、表情、皮膚の質感等々、細部がかなり見えており違いははっきり。画面のガタツキや小さなゴミ等もかなり取り除かれ良い感じである。薄暗いシーンでは特に違いが明らかで、例えば『ツィゴイネルワイゼン』終盤に小稲が数回訪問するシーン(素晴らしいライティング・撮影・美術による素晴らしいシーン)などは『デラックス版』では暗い箇所がただつぶれた感じだったのが、本ディスクでは独得の空気感に満たされ幽玄なシーンとしての見所を増している。コレを観てしまうと『デラックス版』の画質には戻りにくい。 …また、若干色味も違う感じである。(これに関してはデラックス版のやや青が強い色味のほうが私は好みであるが) 『夢二』については色味に大きな変化はないが、やはり細部はよく見えている。 色味に関しては今回のHDリマスターの監修が故永塚一栄氏ではなく藤澤順一氏(『夢二』『カポネ大いに泣く』のカメラ)であることも影響しているかもしれない。(但し、氏は『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』両作品にも永塚氏の撮影助手として関わっている) といったわけで、画質の改善と色味の変化は確認できたが、何しろ古い映画であるので劇的な変化とまではいかない。 (この変化はブルーレイによる改善なのかHDリマスターによる改善なのか正直よくわからない)
ソフトの仕様については、簡素そのもの。 封入物はポストカード三枚程度。しっかりとした造り・デザインの外箱はなかなか良好なのだが、各ソフトのジャケットデザインは(…基本的には悪くないのだが)正直に言って「また、この写真かぁ」といった感じだ。新しいデザインを採用して欲しかった。 映像特典も予告編と静止画ギャラリー程度。他の方が指摘されてるようにチョッと寂しい。 (『デラックス版』は特典が豊富だし裏話満載の製作荒戸源次郎によるコメンタリーが楽しい。画質の差はあっても手放せない) そんなわけで★を一つ減らしました。
といったわけで、商品としては若干詰めが甘いと思いますが、画質の改善等は明らかですし、さらに清順監督作初のブルーレイでもある訳でファンの方にはお勧めできるのではないでしょうか。
漱石の弟子である内田は幻想小説でも独自の境地を開いたが、 エッセイストとしても一流の存在であり、東京山の手的なスタイリズム や独特のユーモアは弟子の高橋義孝やその弟子の山口瞳、あるいは精神 的弟子とも言える宮脇俊三や阿川弘之にも受け継がれている。 ...と書いてしまったが、実際の所、内省的で高雅な百鬼園先生が 朴訥で実質主義一点張りの「相方」ヒマラヤ山系氏や旅先で出会った 田舎の人々とこっけいなやり取りをし、そこで困惑しつつもシニカル な批評精神から冷静に自己を描写し続ける姿は上に挙げた「弟子」達の 誰も及ばない境地に達しており、表面的な部分はともかく、本質的には 誰にも超えられていないことは明らかである。とにかく、一度読み始めれば (少なくとも章を読み終えるまでは)やめられなくなってしまうことは 請け合いである。
僕が最も好きな映画の一本。
1985年頃の正月の夜にTVで見たのが初めてである。その圧倒的な美学に感銘を受け 翌日から 「ぴあ」で 探し回り 幾つかの名画座で鑑賞した。
「夢二」が原宿でドーム上映された際にも その前に 本作が上映されるプログラムもあり 見に行ったのを憶えている。さらにはLDで購入し 以来 時折家で見ている。これだけ 僕としてこだわった映画は他には無い。
実に美しい映画だ。その「美しさ」も 晴れ上がった青空のような美しさではなく 闇の中で 極彩色がかすかに煌くような美しさである。
語られる物語は 内田百'闌エ作の怪談だ。誰が生きていて誰が死んでいるのかも見ていて分からなくなるばかりである。
誠に迷宮に迷い込んだ思いがする映画だ。日本が世界に誇りえる一本と考えている。
明治から昭和を生きた夏目漱石門下の小説家・内田百間。 この映画は、その内田百間と彼を取り巻く教え子との交流を 教え子の年1回の会合「摩阿陀会」を中心に描いたヒューマンドラマです。
随所にみられる内田の素朴で正直な人柄。それに惹かれて集まる教え子達。 内田を松村達雄、妻を香川京子、彼の教え子を所ジョージや寺尾聡、 井川比佐志らが淡々と、かつしっかりと演じています。 彼らの熱演により、毒のあるやりとりにも、ほのぼのさが現れています。 そして最も印象に残る「オイッチニ!オイッチニ!」の場面。 ばかばかしいですが、大の大人がこれほどばかになれる会の存在に憧れます。
黒澤監督の作品には、大きく分けて戦争ものとヒューマンドラマの2つがあると 思いますが、ヒューマンドラマの中では個人的におすすめの作品です。
たとえば、「百鬼園先生言行録」では、「独逸語は解らんです」という学生に百鬼園先生はこのよう応じるのだ。
「六ずかしいから勉強しなければいかん」 「全体、独逸語に限ったことではないが、外国語を習って、六ずかしいなんか云い出す位、下らない不平はない。人間は一つの言葉を知っていれば沢山なのだ。それだけでも勿体ないと思わなければならない。神様の特別の贈物を感謝しなければいかん。その上に欲張って、また別の言葉を覚えようとするのは、神の摂理を無視し、自然の法則に反く一種の反逆である。外国語の学習と云う事は、人間のすべからざる事をするのだ。苦しいのはその罰なのだ。それを覚悟でやらなければ駄目だ。」
「しかし、先生、独逸語はその中でも六ずかしいのではありませんか。何だか不公平な様な気がするんですけれど」
「公平も不公平もあったものじゃない。ただ自分のやろうと思った事を一生懸命にやってれば、それでいいのだ。我我が人間に生まれたのが幸福なのか、不幸なんだか知らないけれど、君が犬でなくて、人間に生まれたのと、君がこうして僕から独逸語を教わっているのと、みんな同じ出鱈目さ。ただその時の廻り合わせに過ぎない。誰だって人間に生まれる資格を主張して生まれたわけでもなく、人間を志願した覚えもない。気がついて見れば人間だった丈の事さ。犬や牛から云わせたら、随分不公平な話だろう。黙って人間になり澄ましておいて、その癖、独逸語が六ずかしいから、不公平ですなんか云い出したって、誰が相手にするものか」
まことに痛快、滑稽のきわみ、嬉しくも可笑しくもなってくるから不思議。まさしく、これぞ“百鬼園的こころ”なのだーっ。日常的価値観を相対化するこのパワーがすばらしい。 昨今、流行のグローバリズムがなんだ。市場原理主義がなんだ。キャリア教育がなんだ。ぼくはこういう先生がいて欲しいとかねてから願っているし百鬼園先生が大好きなのです。
本著は、随筆集としては最初のもので、『冥途』以後に書かれた小品・随筆的文章・小説など、なにもかもこの文集におさめたものらしい。それにしても何といえばいいのかこのスタイルと感覚。小説であろうが随筆であろうがこの著者のスタンスには、いつも超偏執狂ともいえる唯我独尊をつらぬく文章力で圧倒される。漱石門下とはいえ、その独特の才能は早くから異才を放っていたに違いない。このことは、名著『冥途』を読めばなおさら疑いようがない。
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