02年夏に来日公演された、エクサンプロヴァンス音楽祭の「フィガロ」は、俳優のような演技が注目を浴びたが、99年のベルリン歌劇場(バレンボイム)や、今回発売された96年のチューリヒ歌劇場(アーノンクール)公演も、オペラの演劇的要素が強調されている。フリムの演出は、夏帽子をかぶった近代的衣装など斬新な工夫が楽しめる。第三幕の幕を下ろさずそのまま続く第四幕は、人物たちの動きや隠れる位置が微妙なので、回転舞台の使用が効果を発揮した。スザンナ扮する伯爵夫人の誘惑場面は、抱かれようとする彼女が滑り台のような板からするりと抜け落ちる。もともと「フィガロ」は、ボーマルシェ原作の演劇が稀にみる傑作で、オペラもストレーレルやフェルゼンシュタイン等ヨーロッパ最高の演出家により名舞台が残されている。演劇的要素の比重が大きい作品なのだ。 今回のアーノンクール版は、音楽のテンポが遅いことにかすかな違和感を感じた。一部古楽器を用いているせいだろうか、歌手の歌に絶妙なタイミングで寄り添うべきオーケストラが、ほんの一瞬出だしが遅いところがある。「フィガロ」の音楽はモーツァルト中随一のもので、アリアや重唱が美しいだけでなく、いつ、どこで、どのように音楽が「始まる」のか、そのタイミングの絶妙さは、ほとんど奇蹟を思わせる。だから一瞬の空白も許されないところがあり、全体に遅めのテンポでは、歌手とオケとの緊密な一体感が僅かに損なわれるように感じた。歌手では、スザンナより若い(?)マルチェリーナが見事で、第四幕のアリアなど、「女の友は女」というフェミニズムを体現する彼女の重要性を再認識した。
オーギュスタン・デュメイの感性が余すところなく示されたフランスの作曲家によるヴァイオリン作品集で、彼は持ち前の美音だけでなく、それとは対照的な激しい擦弦音を交錯させて自身の濃厚な感性を作品のデフォルメに至る寸前まで追い求める。彼にとってヴァイオリンは美しく歌うだけではなく、人間の心情の総てを表現し得る楽器としての可能性を試みているように思われる。冒頭に置かれたショーソンの『詩曲』では狂おしいほど燃え盛る情念を抉り出しているし、また『タイスの瞑想曲』ではこれまでに誰も再現し得なかったほどのパトスが感じられる。それは師匠グリュミオーの演奏ほど格調は高くないにしても、デュメイにしかできない甘美な哀愁の表現だ。最後に置かれたラヴェルの『ツィガーヌ』は恐るべき演奏で、ハープが入るまでの長い導入を多彩な音色で妖艶なまでに歌いこみ、後半部は拍車のかかったオーケストラと丁々発止のやり取りをする。そこではヴァイオリンのテクニックの限界に挑む、殆んど狂気にも似た熱狂がある。ここではラヴェルの華麗なオーケストレーションも聴きどころのひとつだ。
指揮者のマニュエル・ローゼンタールはモーリス・ラヴェルの弟子でもあり、作曲家としても活動したパリ生まれのマエストロで、グリュミオーとも同様の作品集を残している。録音当時既に80歳の高齢だったにも拘らずデュメイのソロを活かす情熱的な指揮で、それぞれの作品の聴かせどころを巧みに引き出している。オーケストラはモンテ・カルロ・フィルハーモニー管弦楽団で、指揮者とデュメイの目まぐるしいアゴーギクの変化にぴったりついて奮闘している。彼らは以前の同国立歌劇場管弦楽団で、団員にはまだ上達の余地があるにしても、フランス的な暖色系の音色に魅力があり、またオペラ上演にも慣れているためか融通の利く機動力を備えているのが特徴だ。
1984年の録音で、リマスタリングの効果で音質はきわめて良好。収録曲目は1.ショーソン『詩曲』Op.25 2.フォーレ『子守唄』Op.16 3.ラロ『スペイン交響曲』から第3楽章「間奏曲」4.マスネ『タイスの瞑想曲』 5.サン=サーンス『ノアの洪水』から「前奏曲」6.ベルリオーズ『夢とカプリス』 7.ラヴェル『ツィガーヌ』
フルネがN響でショーソンの交響曲を振ったライブ録音が手元にありますが、それと比べると微妙に雰囲気が違って実に面白く感じます。いずれにしても彼の最も得意な曲のひとつであることは、間違いないところです。ドイツものとは違う交響曲の味わいを、見事に引き出した演奏です。
世の終わりのはかなさを愛しつつ酔いしれるような甘さ、官能的な美しさ。
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