三島由紀夫は本『歌集』冒頭の歌集「未成年」に序文を寄せ、「現代はいろんな点で新古今集の時代に似てをり、われわれは一人の若い定家を持つたのである」と述べている(1960年6月の日付)。「新古今の時代に似ている」とは、中世時代の混沌、芥川龍之介描く『羅生門』の世とでもいうことであろうか? 厳密にはわからない。
それから40年以上が経ち、以降この永遠の青春歌集、三島の言う昭和の藤原定家に並ぶと思える歌集、歌人は出なかったとみえる。 春日井の歌は、青春の酷さ、あまりに澄み切った視線が確かに鮮烈だが、処女歌集「未成年」以降の作品は、結局同工異曲の結構と鮮烈さの後退、死滅に終わっていて、経験や年齢を経ることによる作品の深まりと言うものとは縁のなかった歌人の典型を示している。三島の美学とも相通じる気がしないでもないが、よくも悪くも青春一筋の歌人である。
それでも、青春期に、しかも20歳で、このような言語作品を残し得るということは、歌人にとって大いなる喜びであったろう。代償も少なくないとは思うが、そして平成の今から見るとひょっとすると古いのかもしれないが、その鮮烈なイメージは少なくとも評者には特異に思える。やや、初発のシュールレアリズムぽい歌などは、古い作り物めいた感触がある。「手術台に蝙蝠傘」のノリである。その構成はある意味この歌人に一貫した創作手法とさえいえるだろう。しかし、このイージースレスレかもしれないイメージは、歌を詠む快感の一つを与えてくれる。刺激と言い換えてもよいかもしれない。定家ほどに宇宙的なイメージを持った歌は少ない(あるいはない)かもしれないが、いまだに話題になることの多い寺山修司の歌などより、ずっとショッキングで色彩的だ。いまはもう春日井は詠まれないのだろうか?
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